shisaku

〜自在にたゆたい、連綿と続く〜

はじめに

これは私の日々の「思索・詩作・試作・施策」を

ただひたすら綴ってゆく、そんな身勝手なエッセイ集である。

 

ある時、ただ思考の流れに身を委ねるがままに筆を走らせ言葉を編み続けたことがあった。その時、未だかつてない疾走感と爽快感を抱いたのを覚えている。ここ最近どこか心が満たされずにいたのは、こうして自らを内省し、それを確かな言葉で表し、アウトプットする機会を作れていなかったからなのかもしれないと思った。今の世の中、常に思考を巡らせアウトプットし続ける人だけが前進しているという気がした。時事問題を流し読み、本を読み終えては放置、ああ面白かった感動したという当たり障りのない言葉で片付ける。そんなどこか分かった気がするだけのインプットの沼、停滞に辟易としていた。インプットしたのなら(したつもりなら)必ずそれをアウトプットすべきだし、新たな情報に触れたのなら常にそれに対する考えを持つべきだと思った。それを言葉に起こし、時には寝かせ、発酵した頃にまた戻ってくるときっと面白いことが待っているはずだ—自戒をこめて、そう思った。日頃からこうしたルーティンを身につけて思考を練り続けているからこそ、同じ話題に触れた時に瞬時に意見が言える、切り返せる、これを巷ではあの人は頭の切れる人だなんて言ったりする。誰もその場の数秒で思いついているわけではない。経験「知」というやつなのだろう。いわゆる頭の切れる人というのは日常的に様々に考えを巡らせ、寝かせ、反芻するといったサイクルを繰り返してるのだ。些か持論の展開に熱くなってしまったが、そんな現状から脱却するべく始めたのがこのブログである。

 

このブログ「shisaku」は最近始めたジャーナリングが元にある。当初からブログは始めるつもりでいたが、どこか腰が重くなかなか筆が進まなかった。そこでまずは誰かに見られることは意識せず、ただひたすら書き綴ることから始めることにした。編集するのは後からでいいから、とにかく思考を淀ませずに言葉を紡ぎ続けることだけに注力した。こうして始まったジャーナリングは全く系統立てもせずタイトルも付けず極めて生な状態を保っているわけだが、これを暫く寝かせたのちに読み返して、抜粋したり再構築したりしながらトピックごとに整理できたら面白いだろうと思ったのが「shisaku」の発端である(知のエディターシップなんて呼ばれたりすることもある)。例えるなら、私が尊敬する巨匠・外山滋比古先生の「思考の整理学」のような形をどこか目指しているのかもしれない(未読の人には是非お勧めしたい)。

 

元がジャーナリングであるが故に、この文章は誰か読者を想定して書いているわけでもなく極めてエゴセントリックである。しかし、それは極めて「自分」であるからこそ、こんな「自分」を知って欲しいという思いの現れなのかもしれない。普段は口数が少なく寡黙と思われがちだが、Stephan Hawkingが残した“Quiet people have the loudest minds.” という言葉には強く共鳴するところがある。冷静沈着な人ほど燃えたぎる想いをうちに秘めているという意だ。この「shisaku」を通じてその一片を感じ取ってもらえるならば、これ以上嬉しいことはない。私の好きな言葉に「どんなちっぽけな人生も、どんな素晴らしい小説より面白い」という言葉がある。こうして自分の日常、ひいては人生の一端を言葉にして紡いでいくことで、そんな面白さが生まれれば良いなと願っている。