shisaku

〜自在にたゆたい、連綿と続く〜

マテリアルズインフォマティクス入門

最近色々な人と話すたびに「留学しとるのは知っとるけど、一体なに勉強しとるん?」と聞かれることが多い。その度に何とか分かりやすく説明しようと試みるものの「ほえ〜なるほど、、(なんや難しくてようわからん)」という反応をされるのが常である(ちょっと悲しい)。そこでせめて近しい人には実際何を勉強しているのかイメージだけでも知ってもらいたいと思い、久しぶりに筆をとることにした。

 

タイトルにもある通り、今勉強しているのはマテリアルズインフォマティクス(MI)と呼ばれる分野である。そもそも大元にあるマテリアルズサイエンスという分野でさえあまり広く知られていない分野なだけに、その中でもまだまだ最近興ったばかりのMIの話となると名前を聞くだけで敬遠されがちである。端的に説明するとMIとは「人工知能(AI)やビッグデータ解析などの情報科学技術を駆使して新材料や新物性を効率的に探索する取り組み」のことである。こう聞くともう既に頭がクラクラして、これ以上先を読む気が失せたかもしれないが今回はそういった混み入った話はせずに、MIという分野を直感的に分かりやすく説明したいと思う(ので最後まで読んで欲しい)。

 

「料理」を例にとって考えてみよう。私たちが実際料理をしようする時、頭の中には「こんな味にしたい」だとか「こんな彩りにしたい」といった所望のイメージがあるはずだ。そして、その味や彩りを引き出すためには一体どんな食材や調味料をどういった工程で調理すれば良いのかを教えてくれるのがレシピの役割である。しかし、まだ誰も作ったことのない料理を作りたいとなった時には、料理人の長年の経験や勘に頼る、もしくは自分でひたすら試行錯誤を繰り返すほかないわけだ。これと全く同じことが材料開発においてもここ数十年繰り広げられてきた。料理同様、材料には「これくらいの電気伝導率が欲しい」だとか「これくらいのエネルギー変換効率を持たせたい」といった所望の機能や物性が存在する。その開発のためのレシピが既に分かっている場合にはこれは比較的難しい話ではない。しかし、未知の材料を開発するとなった場合には、材料科学や物性物理の専門家の長年の経験や勘に強く依存せざるを得ず、これまで莫大な時間とコストをかけて開発が推し進められてきた。そこで、その時間とコストを大幅にカットする手段としてここ数年で革新的な成果を上げているのがMIである。具体的には、新たな料理(材料)を作りたいとなった時にどんなレシピ(ex.電子の振る舞い、原子の組成、ナノ構造〜マクロ構造、オペレーション環境)であれば良いのかを、過去の実験データやシュミレーションに基づいた機械学習や数理最適化によって逆設計するのがMIの役目である。これによって経験や勘に基づいた従来の手法のボトルネックを解消し、これまで開発に10〜20年要していたものをわずか2〜3年で開発することが可能になりつつある。その社会的影響は、環境問題に関わるエネルギー変換材料から革新的な医療デバイスの開発まで計り知れないものがある。究極的には、欲しいままの機能や物性をナノスケールから自由自在に設計することを夢見ながら今日も勉強に励んでいる。

 

(近況報告)5月からMIに特化したAIスタートアップでの長期インターンが決まった。久々の日本を満喫しつつも、必死に勉強しながら色々な知見や技術を吸収していきたい。

 

読書哲学

最近は以前と比べると読書にそれほど多くの時間を割けているわけでもないが、そうは言ってもこれまで大半の人より読書をしてきたという自負はある。小学生の頃から一日でハリーポッター1冊を読みきってしまうほどの読書家ではあった。中学の時には英語力はまだ拙いながらもハリーポッターの洋書を全巻買ってもらい読みきったこともあったし、高校の時には知り合いのケンブリッジの先生から借りたロードオブザリングを次会う時までに読み終えると決めて数週間で読み終えたこともあった。読書に没頭している時の感覚を一言で表すなら、海の奥深くにひとり静かに潜っていくような感覚と言えるだろう。こうしてそれなりに本が身近にある生活を送ってきた人間として、ここで一度自分なりの読書のスタイルや読書への向き合い方について振り返りたいと思う。

 

<読書のスタイル>

私が思うに読書のスタイルは大別すると二つある。一つは1冊に集中して読みきるまでは他の本には触れないスタイル、もう一つは複数冊並行して読み進めるスタイルだ。結論から言うと私は後者であり、主に3冊を並行して読み進めることが多い。こう言うと、複数冊も同時に読み進めると頭がこんがらがらないかと聞かれる(私はいつもこんがらないかこんがらがらないかどっちだかこんがらがる)。しかし、3冊と言っても闇雲に選定してジャンルもめちゃくちゃに読んでいるわけではなく、これにはしっかりとしたこだわりがある。この3冊というのはジャンル分けの数に起因している。

 

  1. 古典・歴史・自伝・哲学・思想系(思考を学ぶ、薫陶を受ける)
  2. ノンフィクション(知識を得る、見識を深める)
  3. フィクション(情緒を揺さぶる、想像を掻き立てる)

 

それぞれのジャンルごとに読書の目的を分けて考えている。

実際に今私が読んでいる本を例にとると、自伝=Physics and Beyond (Werner Heisenberg)、ノンフィクション=A Thousand Brains (Jeff Hawkins)、フィクション=The Remains of the Day (Kazuo Ishiguro)といった具合である。思うに、このジャンル棲み分け並行読書法(今勝手にそう命名した)のメリットは二つある。一つはその時々の自分の気分や求めているものによって読み分けることができるということ、そしてもう一つは並行思考によるセレンディピティを得られることである。セレンディピティとは、ふとした瞬間の思いがけない発見や繋がりのことである。三つの全く異なるジャンルから選んだ一見バラバラのテーマを同時に読み進めるうちに多方位に点が散りばめられる。スティーブ・ジョブズのかの有名なスピーチから拝借すると、あとで振り返った時にそれらのドットがふと繋がる電撃のような瞬間、それをセレンディピティと呼ぶのだろう。そしてそのセレンディピティを誘発するのがこのジャンル棲み分け並行読書法だ(2回目)。実際そんな頻繁に起こることでもないが、一定期間同時並行で全然違うジャンルのことを考えていると、ふとした時にそれらがつながって面白いアイデアが生まれるということを過去に何度も経験している。人それぞれスタイルはあるとは思うが、是非一度試してみてこの感覚を味わって欲しい。

 

<読書への向き合い方>

読書とは著者から読者へと情報が流れ込む単なる一方通行の行為ではない。むしろ読書とは、極めてインテラアクティブな営みである。読書という行為を一言で簡単に表すならば、著者との対話、もしくは自分が経験し得ないストーリーの追体験と言えるだろう。時には著者のジャブに対してカウンターを合わせることだってある。これは納得できる、これはいかがなものか、と自己を投影しながら対話的に読み進める積極的かつ双方向な営みこそ読書の真髄なのではなかろうか。

 

いざ読み終えて本を閉じたら次に何をするか。

読書を経て広がった世界を、「面白かった、感動した、刺激的だった」という陳腐な言葉だけで収斂させてしまうのはやはり避けたい。面白かったという言葉一つをとっても様々な色があるはずだ。共感できたから面白かったのか、それとも自分には全く理解できなくて面白かったのか、この二つは同じ面白いという形容を取りながらもまるで違う。それを同じ言葉で十把一絡げに束ねてしまうのはあまりにももったいない。ゆっくりと時間をかけてその差異に丁寧に向き合い、その微細な差異を言葉で綺麗にすくってあげることでより確かな輪郭を持った理解へと繋がる。逆にその意味で、思索が未熟な段階における言語化という収束へと向かう行為は、細分化された感情の一部を捨象し取りこぼしかねない危険性をも孕んでいる。時には、言葉にできない、もっと言えば言葉にするべきではないことだってある(そもそも言葉にできない高尚な次元を映し出すホログラフィーが諸芸術や作品であることを考えると、それを並の人間が事細かに言語化しようとすること自体が愚かであり高慢なのかもしれない)。かの有名な哲学者Ludwig Wittgensteinが『論理哲学論考』で残した”Whereof one cannot speak, thereof one must be silent.”という言葉からもそれは窺い知れる。しかし、人が言語化できる範疇には限界があるという事実も認めながらも、自らの持ち合わせる手札を切って可能な限り言葉にする努力はやはり怠るべきではないだろう。そしてこれを記録として残しておくことにはもっと価値がある。またいつか数年後に同じ本を読み返した時には全く違うことを感じているかもしれない。わからなかったことが時を経てわかるようになっているかもしれないし、逆にわかっていたことがわからなくなっているかもしれない。その時にこの記録を読み返して、当時の自分はこんな感性を持っていたのかと振り返ることで、過去の自分から学ぶことだってあるだろう。人は一見歳を重ねるごとに直線的に成長していくはずだと思いがちだが、こと感性に関して言えばそんなことはないのではないかと思う。その意味で本とは人の写し鏡であり、またある種の物差しなのではなかろうか。

 

追記:一度自分が読んできた本を整理したくてReading listを作ってみた。ここ最近読んだ本は大方リストアップしたように思う。Reading listはその人をそれなりに良い近似で映し出しているという所感がある。人の本棚を覗くのが割と好きな方なので、あわよくば会話の種になることを願ってリストアップしておく。

 

<Reading list>

古典・歴史・自伝・哲学・思想系(思考を学ぶ、薫陶を受ける)

・思考の整理学(外山滋比古

・やわらかく、考える。(外山滋比古

・こうやって、考える。(外山滋比古

・乱読のセレンディピティ外山滋比古

・探求する精神(大栗博司)

・物理学者のすごい思考法(橋本幸士)

・職業としての小説家(村上春樹

・世界のエリートが学んでいる哲学宗教の授業(佐藤優

論理哲学論考ウィトゲンシュタイン

方法序説デカルト

存在と時間ハイデガー

・mindset (Carol S Dweck)

・Surely You’re Joking Mr. Feynman (Richard Feynman)

・Physics and Beyond (Werner Heisenberg)

 

ノンフィクション(知識を得る、見識を深める)

・重力とは何か(大栗博司)

・強い力と弱い力(大栗博司)

・初めての<超弦理論>(川合光)

・英語の発想、日本語の発想(外山滋比古

・日本語の個性(外山滋比古

・進化しすぎた脳(池谷裕二

・脳はこんなに悩ましい(池谷裕二中村うさぎ

・生物と無生物の間(福岡伸一

利己的な遺伝子リチャード・ドーキンス

・The Language Instinct (Steven Pinker)

・Homo Deus (Yuval Noah Harari)

・FACTFULLNESS (Hans Rosling)

・Six Easy Pieces (Richard Feynman)

・Einstein’s Fridge (Paul Sen)

・A Thousand Brains (Jeff Hawkins)

・I Will Teach You to be Rich (Ramit Sethi)

・The Simple Path to Wealth (JL Collins)

 

フィクション(情緒を揺さぶる、想像を掻き立てる)

・火花(又吉直樹

谷川俊太郎詩集(谷川俊太郎

ノルウェイの森村上春樹

・ダンスダンスダンス(村上春樹

スプートニクの恋人村上春樹

コンビニ人間村田沙耶香

人間失格太宰治

・A Wrinkle in Time (Madeleine L’engle)

1984 (George Orwell)

Fahrenheit 451 (Ray Bradbury)

・The Remains of the Day (Kazuo Ishiguro)

・A Study In Scarlet (Arthur Conan Doyle)

・The Great Gatsby (F. Scott Fitzgerald)

はじめに

これは私の日々の「思索・詩作・試作・施策」を

ただひたすら綴ってゆく、そんな身勝手なエッセイ集である。

 

ある時、ただ思考の流れに身を委ねるがままに筆を走らせ言葉を編み続けたことがあった。その時、未だかつてない疾走感と爽快感を抱いたのを覚えている。ここ最近どこか心が満たされずにいたのは、こうして自らを内省し、それを確かな言葉で表し、アウトプットする機会を作れていなかったからなのかもしれないと思った。今の世の中、常に思考を巡らせアウトプットし続ける人だけが前進しているという気がした。時事問題を流し読み、本を読み終えては放置、ああ面白かった感動したという当たり障りのない言葉で片付ける。そんなどこか分かった気がするだけのインプットの沼、停滞に辟易としていた。インプットしたのなら(したつもりなら)必ずそれをアウトプットすべきだし、新たな情報に触れたのなら常にそれに対する考えを持つべきだと思った。それを言葉に起こし、時には寝かせ、発酵した頃にまた戻ってくるときっと面白いことが待っているはずだ—自戒をこめて、そう思った。日頃からこうしたルーティンを身につけて思考を練り続けているからこそ、同じ話題に触れた時に瞬時に意見が言える、切り返せる、これを巷ではあの人は頭の切れる人だなんて言ったりする。誰もその場の数秒で思いついているわけではない。経験「知」というやつなのだろう。いわゆる頭の切れる人というのは日常的に様々に考えを巡らせ、寝かせ、反芻するといったサイクルを繰り返してるのだ。些か持論の展開に熱くなってしまったが、そんな現状から脱却するべく始めたのがこのブログである。

 

このブログ「shisaku」は最近始めたジャーナリングが元にある。当初からブログは始めるつもりでいたが、どこか腰が重くなかなか筆が進まなかった。そこでまずは誰かに見られることは意識せず、ただひたすら書き綴ることから始めることにした。編集するのは後からでいいから、とにかく思考を淀ませずに言葉を紡ぎ続けることだけに注力した。こうして始まったジャーナリングは全く系統立てもせずタイトルも付けず極めて生な状態を保っているわけだが、これを暫く寝かせたのちに読み返して、抜粋したり再構築したりしながらトピックごとに整理できたら面白いだろうと思ったのが「shisaku」の発端である(知のエディターシップなんて呼ばれたりすることもある)。例えるなら、私が尊敬する巨匠・外山滋比古先生の「思考の整理学」のような形をどこか目指しているのかもしれない(未読の人には是非お勧めしたい)。

 

元がジャーナリングであるが故に、この文章は誰か読者を想定して書いているわけでもなく極めてエゴセントリックである。しかし、それは極めて「自分」であるからこそ、こんな「自分」を知って欲しいという思いの現れなのかもしれない。普段は口数が少なく寡黙と思われがちだが、Stephan Hawkingが残した“Quiet people have the loudest minds.” という言葉には強く共鳴するところがある。冷静沈着な人ほど燃えたぎる想いをうちに秘めているという意だ。この「shisaku」を通じてその一片を感じ取ってもらえるならば、これ以上嬉しいことはない。私の好きな言葉に「どんなちっぽけな人生も、どんな素晴らしい小説より面白い」という言葉がある。こうして自分の日常、ひいては人生の一端を言葉にして紡いでいくことで、そんな面白さが生まれれば良いなと願っている。